東日本大震災直後、仙台へ向かう(2)
当時のN社は、会社の使命として木造住宅の耐震化を進めていたこともあり、「住まいは命を守るもの」というキーワードが社員に行き渡っていました。震災時の多賀城のプレカット工場の責任者は、社員の命が第一と考え、業務を止め、近くのショッピングセンターの屋上に避難するように指示します。中には、車で自宅に向かった人もいたと聞いていますが、津波がすぐそこまで来ているとの知らせもあり、車を捨て、歩いてショッピングセンターに向かったことが、結果、命を守ることになりました。プレカット工場では、津波を想定し、普段から2階建てショッピングセンターの屋上駐車場を避難場所と考えていたそうです。もしもの時に、食料、水、服や寝具まで販売していること、車での避難が可能で、最悪、車の中で過ごせば良いと考えてのことであり、見事な避難指示であったと思います。現実、隣地の工場では多くの被害者が出ていたのです。

彼らの話を聞くと、信じられない光景を目にしたというのです。流される人や車を見ながら、助けることができないもどかしさは、口にすることもはばかられるようで雰囲気で察するしかありませんでした。水が引いたので、自宅マンションの4階からエントランスに行くと、瓦礫とともに息絶えた被害者がいる。工場の奥には、瓦礫とともに大型トラックや乗用車数台が流されてきている。そんな話を聞きながら、家族の安否を確認し、本部の指示で優先順位をつけて対応しました。その日は、持病を持った人、妊婦などの数人を同乗させ、山形空港へ向かったのです。無事届けたのは良いのですが、新潟まで帰るには燃料が足りなくなることがわかり、新潟市場からの助け船を依頼し、途中で給油をして何とか夜中に到着したのです。

十数日後、社員や家族への支援だけでなく、調査のために再度現地に赴くことになるのですが、それまでの期間はどうしても現場の営業所や事務所を離れられない社員を残し、被災者である東北エリアの社員や家族全員を長野や新潟の宿泊施設にバスで移動させていたのです。全社員が一丸となってこの難局を乗り越えようと動いていました。N社の判断や決断力は、「住まいは命を守るもの」といった理念を持ち、社員や家族の安全確保第一で経営しているからだと感じていました。

3月末からは、東北エリアでお客様廻りと被害状況確認を行っていくことになったのですが、仙台と郡山では過去に分譲住宅やマンション供給を数千戸単位で行っていたこともあり、多くの時間を要しました。しかし、早くから、マンションは免震、戸建ては耐震等級3で供給していたこともあり、供給した建物はほとんど被害を受けていませんでした。しかし、住宅資材販売先のお客様である建材店や木材店の事務所や工務店様に多くの被害が発生し、その支援に翻弄された数日間でした。また、他の地域の営業活動を止めてまで、復旧資材の不足を全国から集め、東北の建材店に卸していきました。そして、4月になると、東北の工務店様とともに応急仮設住宅づくりに邁進することになったのです。

東日本大震災が発生してからの一か月間は、私にとっても過去にないほど時間が足らないと感じる期間でした。今まで一緒に働いていた「仲間」が困っていると考えると、すぐにでも駆け付けたい、寝る時間が惜しいと感じたほどです。津波被害の状況だけでなく、原発事故の情報が不明確であったこともあり、あわただしい時間が過ぎていきました。しかし、この経験は何物にも代えがたい時間であったことも確かであり、自分の人生の方向性が明確になっていった時期でもあったのです。「住宅の耐震化、住まいは命を守るもの」をライフワークにしていこうと誓うことができたのです。


