父からいただいた笑顔
父が亡くなって24年が経ちました。20代で戦争に巻き込まれ、夢であった和菓子屋をあきらめ、漁師になった父は、半年以上自宅におらず船中の生活だったこともあり、自宅に帰ってきたときには、ずいぶん可愛がってもらったものです。特に二つの出来事は、忘れることはできません。

小学校6年の時、授業の成績順(ミニテスト)に給食のお代わりができるという、今では考えられないルールがありました。いつも成績上位だったので文句も言わずいたのですが、成績が悪かった時に、「こんなのおかしい、不公平だ」と食ってかかったのです。「公平って、どうすればいいのか」と言われ、次の日から「給食当番」になりました。理科室から秤を持ち込み配り始めたのです。当然時間がかかり、冷たくなってしまう。最初の1週間は、級友たちも協力的でしたが、だんだん口数も少なくなって、給食時間が地獄のようになっていきました。それでも許されることはなく、卒業までの約3か月間、繰り返されたのです。そんな時、「最近元気がないが、何か学校であったのか」と父に話しかけられ、給食時間の話をしたのです。父は、「自分が良い時は何も言わず、都合が悪くなると文句を言う芳郎が悪い。最後までやり続けろ、世界中の人が敵になっても父ちゃんはお前の味方だ、頑張れ」と言われ、冷たい目にさらされながら、卒業まで続けたのです。

結婚して二人目の子どもを授かった正月のことです。1歳になったばかりの下の子の顔色が悪いと指摘され、病院に行くと「これは手に負えない」と総合病院を紹介されて即入院となり、女房が病室に付き添ってくれたのです。その晩、大雪が降る中、長女と二人で自宅に戻ったのですが、長女も高熱を発し泣き止まないのです。放射線技師だった兄に相談して応急処置をして、次の日の朝一で二人が入院している病院に行くと、長女もそのまま入院したのです。1週間ほどで長女は退院したのですが、下の子は過去に日本では8例しかない特定疾患だったのです。どうしていいのか、何をすればいいのか、どん底の精神状況です。そんな状況の中、実家から父が掛つけてくれました。家に父と長女と私、病院に女房と下の子の生活が始まったのです。

私は、朝から長女のことを準備して仕事に向かい、帰りに病院。その間、父が慣れない群馬で3歳の長女を見てくれていたのですが、両親の居ない長女は良く泣いていたので、父は困ったと思います。数か月後には保育園に預けたのですが、泣いて、泣いてどうしようもなく、長女は遠く離れた女房の実家に預けることになったのです。父は、高齢になっていたにもかかわらず、私が困っていると駆け付けてくれるのです。一般的には自分の家で孫の面倒を見る人はいますが、慣れないエリアまで出向いて、3歳の孫の食事だけでなく、一日中面倒を見て、洗濯、掃除まで行ってくれるのです。1年半後、下の子も退院することができ、普通の生活に戻ったのですが、1年以上面倒を見てくれた義理の両親、3か月面倒を見てくれた父、こころの底から、親とはありがたい存在だと思ったのです。

長女の1歳のお祝いで一升餅を持って来ようとしたのですが新幹線に忘れ、高校時代に初めて彼女を家に連れて行ったら帰った後「キスぐらいしたのか」と言われ、大学合格は自分のこと以上に喜んでくれました。これ以外にも、笑顔にさせていただいた思い出がたくさんあります。

笑顔デザイナーは、関わる人の笑顔を見たいと思い、一級建築士事務所の名前にしたのです。家づくりはもちろんのこと、関わるあらゆる人の笑顔を見たいと思ったのは、実父の私たち子どもや孫への愛情や行動を見てきたからです。私たちがものすごく苦しい時こそ、自然と「笑顔」をつくれるようにしてくれたのです。私自身どこまで、関わる人を笑顔にできているか、まだまだ足らないと思いますが、父と同じようにチャレンジしていきたいと考えています。