日々の生活の中での笑顔「幸せ」を感じる

サラリーマン時代、通勤電車を使って通勤をしていた期間が30年ほどありました。若い時には、こんなものかと考えていませんでしたが、50歳代の後半になると、地獄のような電車の込み具合に、「本当にこんな生活でいいのか」と考えるようになりました。60歳代になって、千葉県内の住宅会社への出向を受け入れ、通勤電車から解放されてから、その時間で神社を参拝するようにしました。定年退職を迎え会社をつくってから、さらに朝の時間が取れるようになり、毎日、地元の田間神社まで往復4kmのジョギングをするようになりました。毎日参拝するようになると、参拝しないとなにか悪いことが起きるのではないかと不安に駆られ、さらにそれが恐怖にかわり、5年ほど続いています。最近では、ある人から「高齢者はジョギングよりも早歩きのほうが健康に良い」との話を聞き、早歩きに変えたのですが、1時間が長く感じ、手持ち無沙汰になったのです。そこで、この時間に地域のために何かできないかと考え、大谷翔平選手、菊池雄星選手がゴミを拾うことで運を拾っているというエピソードを意識して、「資源ごみである缶やペットボトル、ビン」を拾うようにしたのです。

缶やペットボトルを拾うのであればと、毎日コースを変えていることもあり、残念ながら、拾う数が減少するどころか増えているのです。私の住んでいるエリアは、スーパーやホームセンター、道の駅、パチンコ店などがあり、どうしても月曜日に多くなるのですが、約1カ月でアルミ缶が300、スチール缶が100、ペットボトルが200というボリュームになってしまうのです。ジュースやお茶ではほとんどありませんが、コーヒー缶にはたばこの吸い殻が入っていることがかなりあります。家に持ち帰り、洗ってまとめることになるのですが、これが一番困っていることですね。近くに吸い殻入れがあるにもかかわらず、なぜそのような行動に移すのかがよくわかりません。また、東金は、水田が多く存在し、住宅と混在しているあぜ道に面した水田には、驚くほどゴミが落ちています。缶や瓶が機械に巻き込まれると思うので、間違いなく農作業に大きく影響しているはずですが、残念ながら、もっとも大事な時期に拾えないのです(水やぬかるみがあるので)。

資源ごみを拾いながら思うのは、「捨てる人」と「拾う人」がいるということ、「見られていない」と悪いことと分かっていても行動に移してしまうということ、「小さな悪さ」は許されると思ってしまうこと、また「同じような場所」に資源ごみが捨てられていると気づいてしまいます。

毎日、登下校中の子供たちの安全管理をする人たちがいます。公衆トイレや駅のトイレを定期的に掃除する人たちがいます。数十年間も、子どもたちにボランティアでスポーツを教えている人たちがいます。公園や歩道に花を植え、管理する人たちがいます。高齢者を見守り訪問する人たちもいます。その人たちは、どんな気持ちで行っているのでしょうか。なにか見返りを求めているとは思えないのです。人間の本質には、「世のため、人のため」に役に立ちたいという潜在意識があるのではないか、小さなことでも「役に立つ」と幸福を感じるのではないかと思うのです。事実、私も早朝から、誰も見ていなくても、小さなことですが「世のため、人のため」になっているのではないかと思え、心が満たされることは確かなのです。その後の朝食が、今までよりもおいしく感じから不思議ですね。 朝は、犬を連れた人、ウォーキングを楽しむ人がたくさんおり、すれ違います。この人たちがゴミ拾い(私もできていませんが)を行えば、驚くほどきれいになるのではないかと考えてしまいます。中には、犬の散歩(糞尿処理をしないこともあるから)を嫌う住民もいます。しかし、彼らが毎日ゴミ拾いをするとなると大歓迎ではないでしょうか。小さな行動が世の中を良い方向に導いていくと思うのです。ゴミを捨てる人から、拾う人になるだけで、自分の人生は良い方向に向かうのではないでしょうか。
