安岡正篤氏に繋がるまで

私の住まいは、九十九里浜に近い東金市にあります。20年前の週末は、できる限り、山道やあぜ道といった車が通らない道を選び、好きな本を読みながら2時間ほど歩いていました。そんな時に出会ったのが、90歳を過ぎたある農夫です。冬のある日、気軽に「今年の冬は暖かくて、イチゴが育ちそうですね」と話しかけると、「何を言っている、今年のイチゴ農家は大変だ」とぶっきらぼうに言われたのです。「そうなのですか、何故ですか」と尋ねると、「イチゴというのは、一年かけて育て、霜が降りて寒くなるから、甘くなるのだ」というのです。そして数週間後、畑の草むしりをしていたので、私も草むしりをしながら話しかけると、「俺の仕事を取るんじゃない」と、また𠮟られたのです。その後、週末のたびに話しかけるようになり、築150年の家の縁側でお茶をいただくようになったのです。いろいろ質問すると、気持ちよく答えてくれるようになり、最終的には、夜のお酒を交わす関係になったのです。

その農夫の経歴は、旧制中学を出て、戦中は日本農士学校や金鶏学院で学んでいたのです。両校とも、東洋思想研究者で有名な「安岡正篤」がつくった教育機関で、戦後、GHQに命じられて閉鎖されました。農夫自身は、「もっとも出来の悪い、最後の弟子」と言っていましたが、長年、地元出身の文部大臣の選挙対策委員長や、歴代東金市長の指南役でもあったのです。書斎には、安岡氏の書物、師友会の書類、安岡氏の額などが、所狭しと並んでいるのです。安岡氏が千葉に来ると、弟子たちが集まり、農夫の家に宿泊をしていたようです。私も興味を持ち始め、安岡氏の書物を読み、講演会のテープを聞く様になりましたが、簡単には頭に入ってこず、難解で読み切れないのです。それでも、話は楽しいので勉強をしていきました。「90歳を過ぎると見える世界が違うのだ、朝起きると、生きていて良いのだと思えるようになる」「安岡先生の書物は難しい、理解できないのは勉強が足りないからだ、もっと勉強しなければ」といった言葉が印象に残っています。

奥様からは、「鈴木さんが週末に顔を出すようになって、主人はずいぶん元気になった、楽しみにしているのですよ」と言っていただき、数年間通っていました。しかし、東日本大震災が起き、私が仮設住宅を建設するために東北に行っている間、2011年5月に亡くなってしまいました。いつものように朝から農業に精を出し、昼ご飯を食べ、眠るように亡くなられたそうです。

そのような農夫との出会いから安岡氏を知り、書物を読むようになり、安岡記念館に足を運び、「人間学」というものに興味を持ったのです。戦中・戦後の政治家や事業家など、日本を支えてきた著名人が「安岡学」を学び、心酔していることを知るようになっていったのです。そして10数年前、「安岡学」を引き継いでいる木鶏クラブに入会し、横浜の代表世話人になっていったのです。

人との縁というものは不思議ですね。東金という場所に住まいを持たなかったら、ウォーキングをしていなかったら、気軽に話しかけなかったら、農夫と知り合うこともなかった。農夫からいろいろ教わらなければ、人間学や安岡氏まで繋がっていかなかったでしょう。大げさに言えば、今の自分という人間になっていないし、お付き合いする人も変わっていたと思います。というのは、安岡氏の人間学の話をすると、知っている人と知らない人で大きく分かれます。安岡氏や人間学を知っている人は、それなりの立場で活躍している人が多く、経営者や政治家だけでなく、スポーツ界でも目立ちます。栗山英樹監督をはじめ、花巻東高校の佐々木監督、彼らにつながっている大谷翔平選手、菊池雄星選手など、日本でNo.1になった選手、チームの監督たちほど人間学を学んでいるようです。経済界でも、稲森和夫氏や松下幸之助氏なども人間学を意識した経営をしていたのです。いつの時代でも心の在り方、考え方が目の前の課題を乗り越えるキーになることは間違いないようです。どんなに小さな世界でも、「一隅を照らす」人生を学んでいこうと考えています。

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