東日本大震災後の仮設住宅から

2011年3月11日、東日本大震災が起きてしまった。たくさんの人が、津波や火災、倒壊で家を失ってしまい、福島県ではそれを上回る家族が自宅に住めない状況になりました。原発事故による避難区域に指定されたからです。避難所はすぐにいっぱいになり、他県に避難する人が頻発する中、みなし仮設(賃貸住宅の空き室を緊急的に仮設住宅に指定)制度ができるも、全く足らない。岩手県、宮城県、福島県で8万戸以上の仮設住宅の建設が要望されます。日本において、こんなことが起きると予想した人はいただろうか。それでも、建設業界が一つになって、この緊急事態に対応するといったことが起きました。私がいたN社では、全国に流通する住宅資材を緊急に集め、東北に出荷するように動き始めたと同時に、住宅部門は自社の仕事を止めてでも、仮設住宅の建設に奔走したのです。

そのような中、福島県郡山市にあるK建材会社が主導し、県内の工務店32社で構成する共同事業体をつくって仮設住宅づくりに手を挙げたのです。そこの設計・施工責任者として私が行くことになったのです。市町村の要望がどんどん増え、延長に延長することになり、約1年半の期間に約1,000戸を建設したのです。もちろん、N社の全面的な支援もありましたが、地元の工務店様や協力業者様も必死に対応いただき、県民のために動いたのです。それは見事な連携でした。

まず、建設候補地を県が指定してきます。公園や学校のグランド、牧草地、農地試験場ならまだしも、田や畑、山では、造成工事から企画しなければならず、木や雑草が生い茂った状況で乗り込みます。言わずとしれた放射能濃度が高いことが多い。その段階から一人で行って、共同事業体で建設可能か判断するのです。大工、職人は確保できるか、造成工事の工期は守れるか、そして、何戸建てられるのかを企画するのです。それから、発注があると、樹木の伐採、表土を取り、砕石を敷きこむと、放射能濃度は驚くほど低くなるので施工メンバーが乗り込みます。100戸、200戸の建設でも、完成、引き渡しまで約1カ月、外構工事(道路やごみ集積場など)を含めても45日という短期間で建設します。資材の納入、職人の動き、数百人が一時に動く様子は戦場と同じです。その合間に、監督数人が記録(写真撮影)を残していくのです。

そして、役所の検査、書類をまとめて引き渡すのですが、そこから、建設費の金額交渉が始まります。本体工事の基本価格は決まっていますが、ほとんどがイレギュラー、追加工事、個別要因があるのです。特に、近隣住民との交渉は難度があります。行政区(例えば、福島市に双葉町の仮設住宅をつくる)の違う仮設住宅は、ゴミ収集や排水などの問題が多くなり、特別な工事が出てくるのです。金額交渉は時間との戦いであり、共同事業体から個々の工務店様へ支払うのは県からの入金後になるので、資金不足の工務店様が出てくるのです。短期集中の仕事でしたが、充実した時間を過ごすことができました。

入居予定の被災者は、工事中には決まっており、見学に来ては「早くつくってください」とお願いされるのです。資材不足、職人不足は常態化している中ですが、「何とかしなければ、遅れるわけにいかない」と言い聞かせていました。そして、被災者の入居が始まると、まず和室に大の字に寝転がるのです。「避難所ではこんなことできない、気持ち良い」と。また、冷蔵庫をはじめ、家電一式が日本中からの寄付で送られているので、一つ一つ確かめるのです。「プライバシー」がない生活がどんなに大変なのかわかります。被災者の心からの笑顔をたくさん見ることができたのです。

本来の住まいのあり方は、狭くても、家族一緒に、家族だけで住める、安心で、安全なスペースではないかと思うのです。それが、仮設住宅で教えてくれたことであり、住まい手が最も喜んでくれたことでもあるのです。本来の機能を忘れ、デザインや流行に流され、構造も知らない、お客様の意見だけ組み入れる、「中途半端な設計者」が設計した新築工事やリフォーム工事が増えているように感じます。仮設住宅づくりは、そうそうあってはならないことですが、首都圏、東海地域の住宅密集エリアは、想像をはるかに超えて、家を失う人が出る可能性がありと心配です。

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