初めての建築条件付き土地販売の注文住宅

 就職して、4年目の昭和60年頃のことです。当時は、分譲住宅を設計、施工するため、担当営業マンや所長といった社員同士で打ち合わせし、プランを決定していましたが、一級建築士を取得し、設計責任者になったこともあり、なんでも新しいことにチャレンジしたい頃だったと記憶しています。そのようななか、高崎駅から徒歩15分ほどの好立地の2区画を担当することになりました。当時としては高額になることもあり、建築条件付き土地分譲で販売することになったのです。

 そして、購入を検討していただいたのが山本様(仮名)ご夫婦だったのです。家族は、国家公務員の40歳代のご主人と専業主婦の奥様、小学生の長男と長女の4人です。有名なダム技術者であるご主人は、土木工学が専門だったこともあり、一級建築士取得を評価いただき、人間関係を近づけることができたのです。できる限り要望を聞きだそうとしましたが、「専門家である鈴木さんの提案をできる限り受け入れたい」というのです。心の中でプレッシャーがかかる状況でしたが、本当にうれしく思い、寝ても覚めても「山本様に喜んでいただける住まいとは」を考えていました。打ち合わせも2カ月間にわたり、間取り、外観が決まったのです。

 特徴の一つ目は、対面キッチンです。今では当たり前のキッチンですが、当時はダイニングキッチンとリビング(茶の間)が分かれており、外壁側にシンク・調理台とガス台(システムキチンなど存在しない)が並び、シンクの前に出窓を設置するのが一般的です。事実、キッチンフードは、換気扇が見え、正面にしか設置できない状況だったのです。「ダイニングとキッチンを分けたい、ダイニングとリビングを一緒にしたい、奥様が家族に背中を向けるのではなく、前を向かせたい」との思いから、メーカー担当(後に、N社で家を建ててくれました)と話をして、キッチンフードの換気扇用の穴を正面から、横に変えました。

 二つ目は、小屋裏収納と勾配天井です。二階に子ども部屋と寝室を配置しましたが、子どもが喜ぶ小屋裏利用、寝室の天井高を確保するといった今では当たり前になったプランです。分譲住宅ばかり企画していると、すべてがコストに響き、全く受け入れてもらえない状況だったのです。しかし、これが後々大失敗を起こすのですが。

 三つめが外観、エレベーションです。勾配天井のこともあり、当時はほとんど採用されない「差し屋根」と片流れの組み合わせです。分譲住宅企画では、切妻か寄棟と決まっていたのは、やはりコストから。圧倒的に外壁面積が増え、足場の面積、大工の手間、左官工事も増え、良いことが何もないとされていました。それでも、デザインも重要ということで採用いただきました。

 そして、着工、完成、引き渡しを済ませたのです。引き渡しが済み、引っ越しが終わったころ、山本様から電話が入ります。「何かトラブルか」と思い、ドキドキな心で受話器を取りました。「鈴木さん、自分でつくった家だから、一度泊まりにおいで」とのお誘いの電話でした。当時、分譲住宅が中心だったこともあり、お客様からそのようなお誘いはありえないことでした。担当営業マンとともにお邪魔することになったのですが、転勤する(私が横浜へ)まで数回、宿泊することになったのです。

 それから15年以上が過ぎ、高崎に出張することがありました。山本さんに連絡を入れると、「ぜひ、泊まっていって」と奥様からの返事です。折角だからとお邪魔することにしたのです。奥様から、「鈴木さんが考えていたような、住まい方ができているかな?」「住まいを大事に使っているのよ」といったうれしい言葉をいただきました。しかし、良いことばかりではなく、「リフォームしたの、鈴木さんがいれば、頼んだのだけど、他の会社へ頼んだの」と。また、リフォームした箇所が、「和室を囲炉裏へ」「二階の天井の断熱改修」だったのです。つくったときは、勾配天井、小屋裏収納、屋根はコロニアルであり、断熱材も分譲住宅の延長で、暑いわけです。当時のことを言い訳にすることはできず、反省する出来事です。それでも、お客様は笑顔を絶やさず、数十年も年賀状のやり取りや連絡をする関係でいました。 その会話の中で、「長男、○○が建築学科に行ったの。それは、鈴木さんを見ていて、こんな楽しそうに仕事をしている人がいる、俺もなりたいと言ったのよ」とうれしい言葉。今では、大手の住宅会社の設計責任者。残念ながら、ご主人は亡くなってしまいましたが、山本様のやさしさに、設計士として成長させていただいたことは間違いなく、感謝しかないのです。

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